野球に打ち込んだ少年時代

 

ゴルフバック刺繍で成功した両親

野球との出会い
今回は僕の少年時代の話です。
今でこそ当たり前になったゴルフバッグの刺繍ですが、実は父の会社から広まったものです。
僕が幼かった頃、父と母が営んでいたのはIM刺繍という小さな会社でした。開発肌の父と営業肌の母。
二人のコンビのような掛け合いで活気に満ち溢れていました。生活が一変したのは、父が開発したゴルフバッグ専用の刺繍を展示会に出展してからです。ダンロップやブリジストンなど、誰もが知るメーカーをはじめ、全国から注文が殺到したのです。当然、会社は成長し、父も母も一気に忙しくなりました。
よほど仕事が忙しかったのでしょう。母の手料理を食べた記憶は残念ながらあまりありません。笑

でも、それほど寂さは感じなかったです。というのも、当時は野球に夢中だったからです。小学校4年生からチームに入って、かなり真剣に取り組みました。強豪中学からスカウトされる子も周りにたくさんいて、そんな彼らに負けたくない気持ちがとても強かったです。中学校進学の時、PL学園を選んだのも野球のためでした。

中学に軟式野球部しかなかった話

甲子園の夢
逆転のPL、甲子園の常連校でおなじみのPL学園。
しかし、PL学園中学校には硬式野球部がないと知って愕然としました。あるのは軟式野球部のみ。軟式でも野球は野球じゃないかと思う方もいるでしょうね。だけど、扱うボールが違うと筋肉のつき方や体型まで変わります。PL学園中学に入学した時点で、憧れの甲子園への夢は消えました。それでも軟式野球部で3年間頑張りました。

ゴルフとの突然の出会い

ゴルフとの出会い
中学3年生の夏に突然、両親が僕にゴルフを勧め、母に半ば強引にゴルフ部の寮に見学に行きました。母の「どうしたら入部できますか?」の問いかけに、ゴルフ部長の先生が「素人は無理です。」と言い放ちました。当然です。PL学園の強豪部の体制です。中3の夏の時点で入部者は決定済みで、その上で備品の購入の手配も済んでいるのです。この時期に突然の、しかも未経験である僕の入部など認められるわけではありません。

しかしながらそんな大人の事情を知る由もなく、「素人は無理」の言葉にカチンときた僕は大胆な行動に出るのでした。

ゴルフ部に入れてくださいと直訴

ゴルフ部に入れてくださいと直訴
ゴルフ部に門前払いを受けた翌日。僕は顧問の教頭先生に「入れてください」と直訴しに行きました。純粋で、右も左も知らない少年のお構いなしの行動でした。
だけどそれが功を奏し、めでたく入部が決まりました。
なぜか・・・それは、教頭先生からのある「宿題」をクリアしたからです。
宿題は「卒業までの半年間、ゴルフ部が使用する施設やコースの掃除」でした。しかも、宿題をこなした上で「見込みあり」と教頭先生が判断すればめでたく入部OKというもの。
「余った時間は練習してもいいよ」とのことで、当時PL学園ゴルフ部のヘッドプロであったタテカワ先生にイロハを教えて頂けたのがラッキーでした。重たい竹のホウキを振って、体の回転を身につけろ、と。まるで「プロゴルファー猿」の世界のような教えでした。その頑張りを見てなのか、はたまた見かねてなのか、教頭先生も許可してくださり、僕の入部が決定しました。それは、ゴルフ部初の素人の入部でした。

PL学園での寮生活

寮での生活
晴れてゴルフ部への入部が決まった僕は、剣道・野球・ゴルフ部員の寮に入りました。
寮生活を送る生徒は、「勉強よりも練習して結果を出せ」「試合が君たちの大学受験なんだ」と学校から言われます。生徒同士の上下関係も厳しく、下級生のうちは、洗濯、食事、マッサージなど、上級生のお世話をしなくてはいけません。
この頃の厳しい生活はもう2度と経験したくないと思いつつ、僕の財産にもなっていることは間違いありません。

ゴルフ部での成績とプロへの決意

プロゴルファーへの決意
PL学園史上、初めての素人入部を果たした僕ですが、短期間でそれなりの成績を残すことができました。高校1年生の11月に出場した新人戦で、スコア78で大阪2位になりました。コースを回りだしてから半年でのこの結果に、かなりの手応えを感じました。だけど、2年生時に「緑の甲子園」と呼ばれる全国大会には出場できず、とても悔しい思いもしました。
この悔しい気持ちと一緒に芽生えたのが「プロになる」という思いでした。父は快く応援してくれましたね。
でも「25歳でいったん立ち止まり、プロとして生きていけるか判断しろ」とも言われました。当時の私には真意を理解できなかったけど、卒業までのすべての時間を練習に費やそうと燃えました。

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